はじめに
スポーツにケガはつきもの。私がラケットスポーツの練習中にガクっと腰が抜けたような着地事故を起こして以降、左足の痺れと闘ってきた記録をここに綴ろうと思う。怪我→安静→運動不足。という悪循環や、怪我→焦燥→再発。などのありがちなサイクル。どちらも経験した私が「痺れ」と向き合ってきた1年間の記録です。
第1章:突然の左足の痺れ、そしてヘルニア疑惑
ある日突然、左足に走った強烈な痺れ。
突然の強烈な痺れ。足首から下が電気の靴下を履いているかのごとくの痺れ。思い当たるふしがないわけではなく、むしろ昨日のラケットスポーツで無理をしてボールを拾った時のアクシデントのせいだろうとすぐにわかりました。私は、テニスとバドミントンと卓球が混ざったような新しいスポーツに熱中しています。アメリカで大流行している某スポーツです。私は週に1、2回は練習に参加するほど熱心にプレイしていました。

その日も私は絶好調で、相手がきわどいコースに打ってきても拾う拾う、と粘り強いプレイを披露していました。ですが、深めのロブを打ち返そうとしたときに、ガクっと腰が抜けるような着地をしてしまいました。ほんの一瞬です。転んだわけでもないのですが、明らかに腰が抜けたような瞬間がありました。
その翌日から、私の左足は強烈に痺れ始めました。
初めて感じる異変に戸惑い、ネットで症状を検索する日々。「坐骨神経痛」「椎間板ヘルニア」といったキーワードが頭をよぎり、最悪の事態を想定しました。実際にその頃の私は1キロの距離を歩くことができませんでした。少し歩くとすぐに足が痺れてしまい、休むと歩くことができる。間欠性跛行。その症状で検索すると「脊柱管狭窄症」などの可能性も出ており、私は3日と待たずに整形外科を訪れます。
問診とレントゲン撮影の末、腰椎椎間板ヘルニアの可能性を指摘されます。確かにレントゲンでは腰椎と腰椎の間が狭くなっているのが確認できました。薬を処方され、しばらくは安静にして様子見しましょうということになります。処方された薬はメチコバール、ノイロトロピン、ザルトプロフェン。
第2章:整形外科ではラチがあかない日々
整形外科を受診しレントゲン結果をもとに処方薬で様子見した2週間。歩くこともままならない日々でした。座って安静にしている分には「やや痺れる」という程度でしたが、少しでも動いてしまえば電気の靴下を履いているような痺れが遅います。
2度目の受診でも「とりあえず様子を見ましょう」という診断に落胆した私は、MRIを撮りたい旨を主治医に提案しました。確定診断にはレントゲンだけでは難しい症例が多いので、MRIをすれば治療方法も確定するだろうと考えたのです。ネットの知識で頭でっかちな患者が多いでしょうね。主治医には申し訳ないですが私には様子見ている暇などなく、答えを早く知りたかった。
MRIの結果、腰椎に圧迫は見られる。との所見。確かに腰椎が狭くなっている箇所はあった。ただそれで神経痛になるかどうかは判断しかねる。それがMRIの撮影所の所見でもあり、主治医の所見でもあった。とにかく安静が一番だという結論。ストレッチやジョキング程度の運動はいいけど、スポーツはやめたほうがいい。そんな言われ方をしてしまう。熱中していたものをやめるかしないというなかなか酷、大げさに言えば死刑宣告にも近い。私はなんとかしてスポーツ復帰を目指そうと心に誓った。
第3章:3ヶ月の休止、そして希望の光?
なんだかんといって私は整形外科主治医の指示通り、大好きな競技を3ヶ月間休止。その結果、少しずつ痺れが和らぎ、快方に向かっているように感じた。だが主治医は相変わらず、スポーツ復帰は再発すると思うからと渋い顔。私は、運動療法でなんとか競技復帰できる道を探った。
そこでふくらはぎを肉離れしたときに通っていた接骨院へ通い始めた。そこの接骨院はデスクワークの私の体を慮って、腸腰筋のマッサージや電気治療を推奨してくれた。動きながら競技復帰できるよう治療していくことで、出口を共有した。安静にしてばかりいると動けないからだになってしまう。動ける体にしていくべきだ。そんな考えの接骨院の先生の指導のもと、私はゆっくりと競技に復帰する。動けば「やや痺れる」だけど動きに影響を与えるほどではない。そんな状態での復帰だった。
⇒ 仙腸関節障害との長い闘い2
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